About me


私の音楽史

 

ベンチャーズのテケテケ音とGSの洗礼を受けてエレキとポップスに目覚めた田舎の中学生は、当時の少年たちが誰しもそうであったように、ビートルズやストーンズに憧れを抱きつつ、60年代の音楽に深くのめり込んで行きました。

16歳の頃から詩を書き、自分の言葉で歌うようになりましたが、上手く日本語の言葉を操れないもどかしさが心の奥底にはいつもあり、表現方法やスタイルの確立には苦労や悩みが絶えない毎日だったことをよく覚えています。

そんな折、URCレコードが世に送り出した遠藤賢司とはっぴいえんどのファーストアルバムに戦慄を覚えるほどの衝撃を受け、その後の私の音楽観やスタイルなどが形作られたと言っても過言ではありません。歌詞としての言葉の自由な発想と日本語が生み出す独特のビート感、それらには多大な影響を受けたものです。

触発された私はその後、北海道を離れ京都や大阪、東京を転々と旅する身となりました。70年代初頭のことです。自身の歌が(中央で)どれほど受け入れられるのか、それが知りたくて旅を始めたのですが、居候先では宿代の代わりに家主の前で深夜まで歌ったりしていました。

やがて周囲から応援され協力者までも現れ、著名な音楽評論家の奥様がマネージャーを買って出てくれるなど様々な後押しを受けながら、憧れのURCレコードやキャニオン・レコード発足前のニッポン放送などでデモ・テープを収録したりしながら渋谷を拠点に数年間歌い続けていました。

けれど70年代のミュージック・シーンは生き残りを賭けた過酷な時代であり、常に新しい物を生み出さなくてはいけない恐怖に駆られるほどのパワーを持った「時代のうねり」が私の心を蝕んで行きました。先を急ぎすぎたのかも知れませんが、間もなく行き詰まり、そして世話になった友人や仲間たちの前から姿を消してしまいました。貧しさに耐え切れなくなったのも理由のひとつです。

以来三十数年間、人前で歌うことは無くなり、やがて家庭を持ち子供が生まれ、私はサラリーマンとしてそれからを生きて来ました。ふと再び歌いたくなったのは五十も半ばになってから。長男が結婚して家を離れ、娘たちも成長してそれぞれが新しい何かを始めようとしている頃でした。私もこの先の人生を自由に生きてみようかと、そんな感覚が芽生えたのがきっかけだったと思います。

2005年1月、私は再び歌い始めました。そして現在に至るまで、ずっと歌い続けていられることが幸せでなりません。たぶんこの先もきっと何処かで歌っていると思います。今までにお逢いした方の何人かが、かずら元年という男のことを覚えていてくれたなら、それはこの上なく嬉しいことなのです。

皆さま、いずれ何処かでお会いしましょう!

 

*自叙伝という名の回顧録*

    Kazura in his own write